澁谷読本
澁谷読本
「澁谷読本」は神奈川県大和市立渋谷小学校の前身、神奈川県高座郡澁谷尋常高等小学校が昭和九年八月に発行しました。このページは、渋谷小学校の創立百周年を迎えたことを記念して復刻された「澁谷読本」を許に作成いたしました。
序文
「真の愛国心は真の愛郷心から生れる」とは、今更申し上げるまでもない。而して真の愛郷心は、其の郷土の過去、現在の状況を知り将来益々その発展をはからうとする所の精神によって生まれ出るものであります。諸子の希望を充すべくここに出来たのが「澁谷読本」であります。
本書は、村の歴史、地理、行政、教育、団体、産業、交通、神社、寺院、奮跡と伝説、行事と習慣と順を追ふて記述し、最後に各自の自覚を促して結んだのであります。
今本書を読むことによって、一層郷土愛の熱情が培われ、やがては郷土発展の薦め、我が愛する澁谷村の文化建設の薦め精進されるならば、何よりの幸いと思ひます。
昭和九年八月十五日
澁谷尋常高等小学校
1、村の歴史
懐 (なつか)しい我が郷土(きょうど)・・・澁谷村は、今や人口六千を超(こ)へ、産業・交通・通信・等あらゆる方面に発達 (はつたつ)し、旭日昇天(きょくじつしょうてん)(1)の勢を以て年と共に進みつつある事は、誠に喜ばしいことであります。
今日かうした美(うる)はしい我が村も、太古(おおむかし)と辿(たど)つてみますと、道も家もない、蓬々 (ほうほう)と生ひ茂った蔓草(つるくさ)や思う存分枝を張りきった樹木が、狐狸(こり)(2)の棲家(すみか)となっていた淋(さび)しい原であったと思はれます。
其の後、今日のアイヌの祖先つまり蝦夷(えぞ)(3)が永い間、ここに住んでおりました。所が、凡そ今から千数百年前日本武尊が御(4)東征の後、私達の祖先民族(5)の一部が大和地方から、次第に此の東国の地に入って来ますと、蝦夷は東北の地へと移って行きました。
私達の祖先は、其れから此の地の境川(さかいがは)や引地川(ひきぢがは)のほとりに、粗末 (そまつ)な家を建て長い間原始的(げんしてき)な生活(6)を営んで居りました。
人口が次第に増加してくるに従 したが)つて道路は開け、山林は開墾(かいこん)(7)されて、新しい時代にだんだんと、展開(てんかい)(8)されて来ました。
さうして、幾星霜(いくせいそう)(9)かの歴史を経て、所謂(いわゆる)鎌倉時代の頃になって、ここに我が郷土は青史(せいし)(10)の上に著(あらは)れて来ました。
当時の方々の活躍(かつやく)(11)は実に目醒(めざま)しいもので、「相武の二州(12)は能く天下に敵す。」とまで其の頃謳(うた)はれたのを見ても明らかであります。
時代の変遷(へんせん)(13)に従つて、我が郷土は或は関東管領(かんとうかんれい)(14)上杉氏、或は小田原北條氏等の領土(りやうど)となったりして四百年の歳月(さいげつ)は流れ江戸時代に至りました。徳川時代に我が郷土は幕府直轄(15)の重要な土地として、直参(じきさん)の臣つまり旗本(16)が此処を治めて居りました。其の頃の我が澁谷は、長後・高倉・下和田・上和田・福田の五箇村に分けられていたもので明治の御代になって、神奈川県に属することになりました。
澁谷村と言はれる様になったのは明治二十二年三月、右の五箇村と本蓼川(ほんたてかは)の一部が併合されてからであります。澁谷村と言ふ名は、此の地が遠く鎌倉幕府の頃澁谷ノ庄司重國(しょうじしげくに)の領有(りょういう)の地であったところから、其の名を採つて名附(なづ)けたものであります。
併合されて後の村の進歩発展は、実に著(いちじる)しいもので、今日の隆盛(りゆうせい)(17)を見るまでに至りました。
かうした立派な村になったのも、私達の祖先の方々の涙 (なみだ)ぐましい奮闘(18)努力 (ふんとうどりょく)の賜(たまもの)(19)であります。朝には露を踏(ふ)み、夕には星を戴 (いただ)いて帰り、炎熱灼(えんねつや)く様な夏の日も、寒風膚(はだ)と劈(つんざ)く冬の日も厭(いと)はず、孜(し)々(20)として村の為に働いて下さった祖先の労を想(おも)へば、感謝(かんしゃ)の念 (ねん)禁 (きん)ずる事は到底 (とうてい)出来ないのであります。
私達は感謝の一念と報恩(ほうおん)の誠を以て、祖先の尊い偉業(いげふ)(21)を継(つ)ぎ、新しい生気に満ちた美しい村の建設(けんせつ)(22)へと、努力奮闘(どりょくふんとう)しやうではありませんか。
問題
- 自分の家の系図を調べてごらんなさい。
- 我が村が今日のやうに発達したのは誰のおかげでせう。
- 部落が境川や引地川の窪地の所に多くあるのは何故か考へてごらんなさい。
- 我が村の部落の名をあげてごらんなさい。
- 朝日が天に昇るやうに物のさかんな様を云ふ
- きつねやたぬき
- 上古関東奥羽等に棲んでいた人種
- 東國を征伐すること
- その民族の祖先
- 開けないやばんな生活
- 荒れ地をきりひらいてよい地にすること
- のびひらくこと
- 年月
- 歴史
- さかんなはたらき
- 相模武蔵の二國
- うつりかはり
- 足利幕府で将軍を助け政務をとつた大切な役
- 直接に支配すること
- 大将の陣所を護る兵士徳川氏の制には知行一万石未満の者
- さかんな様子
- 努力大なる骨折
- おかげ
- つとめて惓まざること
- 大いにすぐれた事業
- つくりあげる
2、村の地理
我が澁谷村は南北に細長い形で、高座郡の中部にあります、東に境川を隔(へだ)てて鎌倉郡の中和田・瀬谷の両村に相対(あいたい)(1)し、北は本郡の大和村に、西は綾瀬村に隣り合い、南は六合村に接して居ります。
東西2.658粁南北6.818粁面積13方粁あります。
本村の地勢は、相模平野の一角に立つているもので、海抜(2)45米の平坦(へいたん)な土地であります。
天気晴朗(せいらう)(3)な日に遥(はる)かに四方を望見(ぼうけん)すれば、北より南へ丹沢・大山・箱根・伊豆の山々が連なり、霊峰(れいほう)(4) 富士は諸山を踏(ふ)まへて、秀麗( しゅうれい)(5)な姿を雲上に浮かばせて居ります。南東には、遥かに鎌倉山が低いうねりを見せ、相模の沃野(よくや)は足元から北方へ広(ひろが)つて居ります。なだらかに侵蝕( しんしょく)された多摩(たま)の丘陵(きゅうりょう)(6)が、恰(あたか)も亀の背を並べた様に、我が村の東に迫(せま)つて居ります。
私達の村からの眺めは本当に清々しいものであります。
割然(くわつぜん)(7)としている村の風景は、春夏秋冬を通じて私達に大きな慰楽(いらく)を与えて呉れます。殊に栗の実の熟する頃、美しい落葉樹(もみじ)が、松・杉等の常緑樹(ときはぎ)の間に点綴(てんてい)(8)して、それが夕日に映(は)へる様は実に捨(す)て難いもので嘗(かっ)て独逸のラインが来朝(らいてい)(9)した際にこの相模野の秋を見て「これこそ日本固有の風景である」と嘆賞しました。
村には二條の水田地帯(10)が、長々と続いて居ります。一條は村の東側に、他の一條は西側にあって、夏の頃となれば緑の毛氈(もうせん)(11)を敷(し)きつめ、秋の候となれば、黄金の波が村の平和を語る様に静かに揺れます。
此の地帯には、また二筋の川が北から、部落々々を縫( ぬ)ふ様に南に流れています、此の清流に臨んだ部落に私達の懐( なつか)しい棲家は聚(あつま)つて居ります。
村の大部分は畑や山林などです。其の面積を示して見ますと次のようです。
一、田 13451.7アール
一、畑 62334.8アール
一、山林 26763.8アール
一、宅地 698.8アール
一、其他 242.4アール
計 10349.5アール
村の戸数(12)は一千数十戸で、人口は凡そ六千四百人、一戸当り凡そ六人位であります。更に之を生業別にして見ますと、農業六〇四戸、商業二六〇戸、工業四〇戸其他一四一戸と言う事になって居ります。
村の気象観測(きしょうかんそく)に就いては神奈川県測候所(そくこうじょ)の委嘱(いしょく)(13) による高等町測候所が大正十五年七月設置(せつち)され、それ以来学校で日々の気象(14)を観測して報告して居ます。風の方向は此の地が季節風帯(きせつふうたい)(15)に属しているため、夏は南風、冬は北風と季節によって、其の方向が変わります。ですから此の地方では秋の初め頃、大暴風雨に見舞われる恐れがあります。
最近の観測記録(きろく)によりますと温度は八月が一番高く平均温度二八.九度を示して居り、最も低いのは一月で、平均温度五.四度を現はして居ります。
夏季の雨量の多少は農作物、飲料水に大影響(だいえいきょう)を及ぼすもので昭和八、九年の如き雨量の少い年には実に水の有難味を痛切(16)に感じさせられました。
問題
- 田はどの辺にありますか。自分の部落の田の広さをしらべてごらんなさい。
- 境川や引地川の水源地はどこで又どこへ注いでいるか調べてごらんなさい。
- 境川や引地川がどんな方面に役立たれていますか。
- 面積の比較や生業別のグラフを作ってごらんなさい。
- 一年間の日誌をつけて一番雨の多い月と一番少い月とを調べてごらんなさい。
- 宅地の周囲に樹木が沢山植えられているのには、何かわけがあるのでせうか。
- お互いにむかひ合つてゐる
- 海の面からの高さ
- 気持ちはれる
- 神々しい山
- すぐれた美しいこと
- をか、こやまをいふ
- ひろびろとした様子
- 点をうつた様にあちこちにつらなること
- 外國人が何かの役目をもつて我が國に来ること
- 土地を云ふ
- 獣毛と綿とをまじへおしかためて製した敷物を云ふ
- 本村の戸数(昭和九年四月末調)
1045戸
本村の人口
男 3139
女 3257
計 6396 - たのまれる
- 晴曇風雨寒暖等のやうす
- 一年において季節により風の方向の反対な地方をいふ
- 甚だしく
3、村の行政
町村制(1)は明治二十一年に始めて公布せられました。其処で本村としては、明治二十二年に、前に申し上げた通り、当五箇村と本蓼(ほんたて)川の一部を併合して、此処に渋谷村が成立したのであります。
其の頃の役場は、上宿の泉龍寺(せんりゅうじ)に置かれたもので、後にまた下和田の眞福寺(しんぷくじ)に移され、役場としての特別な建物はなかつたものです。
其の後、明治三十三年に、高等町の現在忠魂碑の建てられてある地に新設され、此処で二十六年の長い間、村の種々の政治が行はれました。大正十四年には、更に今の場所に移転されたもので、建物は其の時新築されたものであります。
役場には、村長、助役、収入役、書記等がおかれて色々の事務を執つて居られます。其の仕事は戸籍(2)、税務(3)、社寺、兵事、土木、学校、勧業(4)統計、衛生等で、それぞれ分担して事務の遂行(すいこう)を計って居ります。
私達が、一家の生計を立て、家族の幸福を計る様に一村の発展、村民の幸福を計るのが此の役場でありますから、役場を「村の心臓」とも言っておりますが、尤もな言葉だと思ひます。
村会議員の人数(5)は、其の村の人口に依(よ)つて違い、本村には現在十八人の議員がおかれて村民の代表者となって、村の仕事を議決されて居ます。尚学校の色々の事について、相談して下さる学務委員が現在七人おかれてあります。
役場の前に駐在所があります。
初めて我が村に駐在所が設けられたのは、明治二十一年に役場と同様、上宿に置かれたのであります。明治三十三年、役場が高等町に移転された時、同様に移転され、現在の建物は二年前に新築されたのであります。
薮鼻駐在所は、大正二年に置かれたもので福田(高等町)駐在所と共に藤沢警察署に属して居ります。
駐在巡査は一般公衆に対して保護の任にあたられるのであつて、私達が毎日安心して暮らせるのも、毎晩枕を高くして休めるのも、そのお陰であります。
問題
- 我が村の歴代の村長さんのお名前をしらべてごらんなさい。
- 我が村の村会議員は幾人あってどんな仕事をされますか。
- 我が村の学務委員は幾人あってどんな仕事をされますか。
- 家に伝染病が生じたり盗人が入つたやうな時はどうすればよろしいか。
- 高等町と長後の駐在巡査はどなたですか。
- 駐在巡査のお仕事を調べて御覧なさい。
- 町村の自治の為に設けた法律で町村の区域の住民及其の権利、義務町村会の組織行政等を規定したもの
- 家々の人別生死等の事柄
- 租税の賦課徴収に関する仕事
- 村の産業をすすめはげます
- 村会議員の定数
人口5千未満 12人
5千以上1万未満 18人
1万以上2万未満 24人
3万以上 30人
4、村の教育
昔は学問すると言つても、お寺に通ふとか、或は手習師匠(てならひししょう)(1)の許(もと)に通ふとかして、読み、書き、算盤の三課目を習つたもので、現在の高等科に於ける十五科目に比べると大変な違ひであります。
明治初年の頃、我が村には、福田に福田学校、上和田に上和田学校、長後に長明学校(ちやうめいがくかう)と言う三つの学校がありました。
村の進展(しんてん)(2)に伴(ともな)ひ村の人々は狭隘(きようあい)(3)な、而して不完全な校舎に満足する事は出来ませんでした。
明治二十八年一月に、今の忠魂碑のある地に高等澁谷小学校が創立(4)され、同時に、長後と福田並木に、南北両分教場が新設されました。
所がその開校祝賀会が、此の年の十二月に挙行(きよかう)された際、不幸にも打ち揚げた煙火が校舎の草屋根に火を移して忽ち火災を起し見る見る中に全校舎は灰燼(くわいじん)に帰し(5)て仕舞つたのです。村の人達はどんなに力を落した事でせう。
けれども村の人達は元気を鼓舞(6)して再び同所に新校舎を建築いたしました。
所が明治三十年九月九日の夜半の大暴風の為、またまた校舎は倒破(とうは)(7)してしまひました。両三年の間にかうした、大災厄(さいやく)に逢(あ)つた村の方々は更に屈せず明治三十二年に至り現在の地に新校舎を建築したのです。同時に分教場も薮鼻、桜株に移され、共に大正六年に改築されたものであります。本校は明治四十三年に増築され、更に其の後大正十年に今の裏の校舎が増築され、なほ昭和五年に表の校舎が新築されたのであります。
校地の総面積一八四.一亜(アール)、新装(8)なれる校舎の前面には懸下に誇る広さ七八亜(アール)の運動場があります。
此の長い歴史を有(も)つ我が学校から、社会に送り出された生徒の数は昭和九年三月末の統計によりますと、尋常科卒業生三〇二七名高等科卒業生一五一二名の多きに達して居ります。
現在千二百名を数へられる児童数は将来どの位まで増すことでせう。
遠足、運動会、道路愛護作業(9)、螟虫駆除(ずいむしくじょ)、神社参拝、戦病歿者(せんびやうぼつしや)(10)等の墓参、学芸会さては秋蠶繭品評会、父兄母姉会、展覧会等は毎年の行事として行はれます。御眞影奉安殿は昭和九年の春新築(しんちく)されたもので森厳(11)自(しんげんおのづか)ら襟(えり)を正さしめる趣きがあります。同年二月紀元の佳節(12)を卜(ぼく)(13)して奉遷式(ほうせんしき)を挙(あ)げました。
男女青年の教育機関(14)としては、明治三十九年四月に実業補習学校男子部が開校され、次て大正四年四月、同女子部が併設(15)され、更に大正十五年には青年訓練所が創立(16)されまして一層青年教育の徹底(てつてい)(17)を見るやうになりました。目下在学或は在所している生徒諸子が真剣に修養を重ねていることは以て皆さんの模範とすべきところです。
尚、村民一般の教育並に修養機関として、昭和二年十一月に、御大典(18)記念として村立図書館(としょかん)が設けられました。
小学校、実業補習学校、青年訓練所、図書館の年を逐(お)ふ(19)て盛になつて行く事は、誠によろこばしいことであります。
問題
- 昔の勉強の様子を詳しくきいてごらんなさい。
- 学校の先生のお名前を挙げてごらんなさい。
- 一年生の時からの先生はどなたでしたか。
- 実業補習学校はなぜ必要でせうか。
- 青年として青年訓練所に入所することの出来るのは何故喜ばしいことでせうか。
- 御眞影奉安殿は何時できたでせうか。
- 図書館が村立として設けられているのは何故ですか。
- 先生
- すすみひらける
- せまくるしい
- はじめて建てられる
- あとかたもなくやけてしまふ
- ふるひおこす
- 倒れこはれる
- 新しいよそほい
- 道路の手入をする仕事
- 戦争の時戦死した軍人や病気でなくなられた人々
- 何ともいはれない程おごそか
- よき日
- ゑらんできめる
- 教育のしかけ
- あはせ立てる
- はじめて立てる
- 充分のところまでいたる
- 天皇が御位に即き給ふ御儀式
- 年々
5、村の団体
我が村には各種の団体が設けられております。其の主なものを挙げてみると、青年団、女子青年会を始めとして、在郷軍人分会、老兵会、消防組、其の他産業に関する種々の組合等沢山な団体があります。
青年団及び女子青年会は畏くも 勅語と 詔書の御趣旨(ごしゆし)を奉体(1)して、立派な人となるように設けられた修養団体(2)であります。我が村の青年団は、大正二年四月一日青年会の名を以て創立され、大正十二年四月一日青年団と改称する様になつたもので、今では団員二百五十余名あります。産業、競技、文藝、剣道、弁論、娯楽の六部に分れ、修養方面に、或は社会奉仕(3)的方面に、一致協同して活動しています。即ち毎年精神修養に関する講習講演会をはじめ、産業発展の薦めの講習会、研究協議会等を開き殊に近年新し味を加へた農産物及立毛(たちげ)品評(4)会、或は団員製作品の品評会を開催する等実に熱心な活躍(くわつやく)をつづけ体育の向上に就ては、或は競技に、或は剣道の練習にと大に若人の意気を発揮して居ります。また女子青年会と合同で発行する団報「土の力と愛」は団員の研究、意見の発表に或は文藝趣味の鼓吹(こすい)(5)に好箇(かうこ)(6)の機関雑誌であります。
女子青年会は大正十三年の創立で、会員百十余名、青年団と歩調を揃へて、女子として必要な講習講演会を開き或は敬老会(7)を催し或は共同秋蠶飼育をなす等、一致共同よく其の指命(しめい)(8)に向かって進んで居ります。また青年団と同様に種々の奉仕的方面にも活動しています。
在郷軍人分会は、兵役に関係ある人々の組織している団体で、本村の分会は明治四十三年二月に創立され現在約三百余名の会員を有してをります。各会員は一朝(いつちよう)(9)有事に備へるため平素の仕事をはげみながらも、常に各方面の修養錬磨(10)を怠らず国家の干城(かんじやう)(11)としての覚悟をもって活躍をつづけてをります。
老兵会は、日清、日露の戦役に従軍された方や其の遺族の方々から組織(12)されている団体で、昭和五年四月に創立されたものです。毎年三月十日の陸軍記念日には総会を開き戦役当時の思出話(おもひでばなし)に花が咲きます。春の彼岸には在郷軍人分会と共に護国(ごこく)の鬼(をに)(13)と化した戦友の霊を弔ふ事にして居ります。
我が消防団は、十二部五百名の組員を以て組織され、十年の日子を費し、昭和四年に陣容(じんよう)(14)が全く整って、公設消防として統制(とうせい)(15)ある訓練をなし、火災の時或は非常の際(16)の警戒等、社会の薦めに、意義ある活動をして居ります。
本村の産業組合は責任保障信用販売購買利用組合と称し昭和六年に創立され規模(きぼ)(17)の大きな工場を設立し斬新(ざんしん)(18)な機械を設備し、盛に製糸工業を営んで居ります。此の組合の活動は、我が村の産業史上に一新紀元(19)を作った観があります。
其の他農産物の栽培(20)、販売等の、統制及び計画(けいかく)の任に当っている農会をはじめとして、養豚組合・養鶏組合・畜牛組合・牛乳搾乳組合・園芸組合・出荷組合・さては納税組合・衛生組合等・産業発展の為或は生活改善のために設けてあるのですから村民はかうした機関を利用することが肝要(かんよう)(21)であります。
問題
- 本村各種団体の代表者はどなたですか調べてごらんなさい。
- 団体の一員としてどういふ心掛が必要ですか。
- 共同製糸とは何の事なのでせうか。
- 男女青年団員となることは其の人のほこりですが何故ですか。
- 自分の家ではどういふ組合に入つているかきいてごらんなさい。
- 有難い御心を自分の心にとどめ身に行ふ事
- 道を修め徳を養ひ立派な人となるやう設けられた団体
- 世の中のためにつくす
- 作物が田畑に成育しているままを見て其の等級をきめる
- すすめる
- 何よりよい
- 郷土の老人をあがめなぐさめる会
- なすべきつとめ
- 一たび
- 心身をねりきたへる
- 國のまもり
- くみたてる
- 死んだ後にも國家を守る人
- 形式と同じ
- 規律正しく秩序あること
- 変わり事があつたとき
- しかけ
- きは立って新しいきこと
- 新しい紀元といふことから大きな変化をいふ
- 作物をつくる
- 大切
6、村の産業
村の職業中一番重要なものは農業です。太陽と大地の限りない恵によつて、私達の祖先は只管(ひたすら)(1)に自分自分の生業を今に伝へてくれました。今その大略を調べて見ませう。
耕地の中水田は比較的少く殊に引地川添(ひきぢがはぞ)ひの水田は境川添ひのそれに較(くら)べて地力が劣っている様です。しかし近時暗渠排水(あんきよはいすい)(2)その他の施設(しせつ)(3)が行はれ改良の歩を進めてきましたので地力も増進し或ひは裏作(うらさく)として紫雲草(れんげそう)等を栽培することの出来る水田が追々増して来ました。一カ年の収量は約八千俵で、陸稲を加へても村内消費量(しようひりよう)(4)には未だ不足しています。
畑は高台に多く、平坦(へいたん)で地味も肥沃です。只地下水位が低く、その上火山灰性の壌土である為めに、年により夏は旱魃(かんばつ)(5)、冬は霜柱がはげしい欠点があります。栽培反別から見て冬作は大小麦、夏作は甘藷、陸稲等が多く、尚近年種々の園芸作物(えんげいさくもつ)(6)や、工芸作物(こうげいさくもつ)(7)等の栽培も普及(ふきふ)(8)して良い成績をあげています。
養蠶は農業中重要な位置を占めて、飼育戸数四〇〇戸内外桑園面積二八ヘクタール繭の生産も三季を合すれば非常に多額になります。生産された繭は組合製糸その他村内外の製糸工場へ提供(ていきょう)(9)されます。
家畜中で最も多いのは豚で農家の大部分に飼養されヨークシャー系の良い肉豚、種豚が生産されてをります。之に次ぎ、牛は役牛としては朝鮮牛、乳牛としてはホルスタイン、フリーシャン種系の飼養が行はれてをり、馬は年々減少して現在では数へる程しかをりません。その他家兔、山羊等の小家畜もそれぞれ飼はれています。家禽では雉が殆んど唯一(ゆいいつ)ですが飼養羽数も多く産卵数も非常に多くなりました。
山林面積は少ないので林産物として特に挙げるものはありません。
以上延べた農産物中、村内の需要を充(みた)して他に移出されるものは繭、小麦、甘藷、その他蔬菜畜産などです。目下農会は勿論のこと、各農家に於てはその経営(10)法や栽培法の研究に苦心して居られます。
一年中で農家の最も忙しい時期は五、六、七月の頃で、養蠶上簇(11)、小麦の収穫、田植等の仕事がおり重なるので、猫の手も借りたいといふ時であります。夏休の八月も、または稲・甘藷の収穫時で多忙でありますが、冬から春先にかけて仕事が少ないのは不利であります。
本村の工業の主なるものは、製絲工業であります。製絲工場で目下煙を上げているのは四工場で、其の中県道添ひの村の中央に在る工場は、本村産業組合の製絲工場で村の大部分の養蠶家を組合員とし、其の生産された繭を原料として前に述べたやうな機械に依って、美しい生絲を製造して居ります。
商家は薮鼻、高等町、櫻株等に集団部落(12)を形成しています。殊に近年薮鼻の発展は目覚し(13)いもので、戸数約四百が密集して、あらゆる職業が存在し、木村商業の中心許りでなく、近隣各村の農家を顧客(こかく)(14)に、益々繁昌(はんじょう)しつつあります。
今昭和八年度に於ける本村生産物の一二の表を掲げてみませう。
種類 | 作付面積 | 生産額 |
水稲 | 13410アール | 72122円 |
陸稲 | 9660アール | 2335円 |
大麦 | 11520アール | 17417円 |
小麦 | 19140アール | 35187円 |
甘藷 | 16320アール | 45696円 |
里芋 | 3250アール | 7313円 |
蔬菜類 | 5860アール | 24702円 |
養蠶戸数 | 収繭価格 | |
春 | 398戸 | 36970円 |
夏秋 | 441戸 | 50985円 |
桑園面積 | 38180アール |
組合製絲
組合員数 | 264人 |
製絲価格 | 178657円 |
問題
- 自分の家の田と畑の耕作面積をしらべてごらんなさい。
- 自分の家の農産物の生産高を「グラフ」の表にしてみなさい。
- 暗渠排水の利益について考へてごらんなさい。
- 冬季の副業として何がよいものを考えてごらんなさい。
- 園芸作物にはどういふものがありますか。
- 工芸作物にはどういふものをいふのでせうか。
- 将来の農業経営はどうしたらよいでせうか考へてごらんなさい。
- 一生けんめいに
- 地底に渠を作つて排水をすること
- しかけ
- つかふ分量
- ひでり
- やさいやくだもの
- いろいろの工業品の原料となる作物
- ひろまる
- もつていかれる
- 仕事のやりかた
- 熟蠶をまぶしにうつすこと
- 多勢が集まつて住んでいる地
- さかん
- とくいのお客
6、村の産業
村の職業中一番重要なものは農業です。太陽と大地の限りない恵によつて、私達の祖先は只管(ひたすら)(1)に自分自分の生業を今に伝へてくれました。今その大略を調べて見ませう。
耕地の中水田は比較的少く殊に引地川添(ひきぢがはぞ)ひの水田は境川添ひのそれに較(くら)べて地力が劣っている様です。しかし近時暗渠排水(あんきよはいすい)(2)その他の施設(しせつ)(3)が行はれ改良の歩を進めてきましたので地力も増進し或ひは裏作(うらさく)として紫雲草(れんげそう)等を栽培することの出来る水田が追々増して来ました。一カ年の収量は約八千俵で、陸稲を加へても村内消費量(しようひりよう)(4)には未だ不足しています。
畑は高台に多く、平坦(へいたん)で地味も肥沃です。只地下水位が低く、その上火山灰性の壌土である為めに、年により夏は旱魃(かんばつ)(5)、冬は霜柱がはげしい欠点があります。栽培反別から見て冬作は大小麦、夏作は甘藷、陸稲等が多く、尚近年種々の園芸作物(えんげいさくもつ)(6)や、工芸作物(こうげいさくもつ)(7)等の栽培も普及(ふきふ)(8)して良い成績をあげています。
養蠶は農業中重要な位置を占めて、飼育戸数四〇〇戸内外桑園面積二八ヘクタール繭の生産も三季を合すれば非常に多額になります。生産された繭は組合製糸その他村内外の製糸工場へ提供(ていきょう)(9)されます。
家畜中で最も多いのは豚で農家の大部分に飼養されヨークシャー系の良い肉豚、種豚が生産されてをります。之に次ぎ、牛は役牛としては朝鮮牛、乳牛としてはホルスタイン、フリーシャン種系の飼養が行はれてをり、馬は年々減少して現在では数へる程しかをりません。その他家兔、山羊等の小家畜もそれぞれ飼はれています。家禽では雉が殆んど唯一(ゆいいつ)ですが飼養羽数も多く産卵数も非常に多くなりました。
山林面積は少ないので林産物として特に挙げるものはありません。
以上延べた農産物中、村内の需要を充(みた)して他に移出されるものは繭、小麦、甘藷、その他蔬菜畜産などです。目下農会は勿論のこと、各農家に於てはその経営(10)法や栽培法の研究に苦心して居られます。
一年中で農家の最も忙しい時期は五、六、七月の頃で、養蠶上簇(11)、小麦の収穫、田植等の仕事がおり重なるので、猫の手も借りたいといふ時であります。夏休の八月も、または稲・甘藷の収穫時で多忙でありますが、冬から春先にかけて仕事が少ないのは不利であります。
本村の工業の主なるものは、製絲工業であります。製絲工場で目下煙を上げているのは四工場で、其の中県道添ひの村の中央に在る工場は、本村産業組合の製絲工場で村の大部分の養蠶家を組合員とし、其の生産された繭を原料として前に述べたやうな機械に依って、美しい生絲を製造して居ります。
商家は薮鼻、高等町、櫻株等に集団部落(12)を形成しています。殊に近年薮鼻の発展は目覚し(13)いもので、戸数約四百が密集して、あらゆる職業が存在し、木村商業の中心許りでなく、近隣各村の農家を顧客(こかく)(14)に、益々繁昌(はんじょう)しつつあります。
今昭和八年度に於ける本村生産物の一二の表を掲げてみませう。
種類 | 作付面積 | 生産額 |
水稲 | 13410アール | 72122円 |
陸稲 | 9660アール | 2335円 |
大麦 | 11520アール | 17417円 |
小麦 | 19140アール | 35187円 |
甘藷 | 16320アール | 45696円 |
里芋 | 3250アール | 7313円 |
蔬菜類 | 5860アール | 24702円 |
養蠶戸数 | 収繭価格 | |
春 | 398戸 | 36970円 |
夏秋 | 441戸 | 50985円 |
桑園面積 | 38180アール |
組合製絲
組合員数 | 264人 |
製絲価格 | 178657円 |
問題
- 自分の家の田と畑の耕作面積をしらべてごらんなさい。
- 自分の家の農産物の生産高を「グラフ」の表にしてみなさい。
- 暗渠排水の利益について考へてごらんなさい。
- 冬季の副業として何がよいものを考えてごらんなさい。
- 園芸作物にはどういふものがありますか。
- 工芸作物にはどういふものをいふのでせうか。
- 将来の農業経営はどうしたらよいでせうか考へてごらんなさい。
- 一生けんめいに
- 地底に渠を作つて排水をすること
- しかけ
- つかふ分量
- ひでり
- やさいやくだもの
- いろいろの工業品の原料となる作物
- ひろまる
- もつていかれる
- 仕事のやりかた
- 熟蠶をまぶしにうつすこと
- 多勢が集まつて住んでいる地
- さかん
- とくいのお客
8、村の神社
田の面に黄金(こがね)の波が立ちよせ、柿の葉の色づく頃になりますと鎮守の森からも楽しい太鼓(たいこ)の音(ね)が響(ひび)いて参ります。
鎮守様(ちんじゆさま)と言へば此の村には十社あります。
鎮守様は此の村を御護り下さる神様で、私達は氏神として厚く崇敬(すうけい)(1)して居ります。
長後の天満宮は、今から凡そ八百五十年の昔、澁谷重國の粗基家が武蔵の秩父(ちちぶ)から此の地に移り住んだ際城内に祀つたのが仰々の始めであるといはれ、祭神(2)は誠忠無比(3)の菅原道眞公であります。其の後、幾度かの戦乱のため、社殿はすっかり廃頽(はいたい)(4)したところ、寶歴(ほうれき)元年(百八十余年前)に社殿が再建(5)されたものです。
明治三十五年管公薨去(こうきよ)(6)一千年に相当した時、其の記念の碑が境内に建てられました。大正八年に拝殿が新築され、昭和七年七月十二日には指定村社に列せられました。境内には幾百年を経た十数本の老松天を摩(ま)して、松籟(しようらい)(7)の音は恰も昔を語るに似て居ります。
例祭(8)は毎年九月二十五日で当日、村長さんは供進使として、祝詞(のりと)(9)を奉読され学校でも児童総代として高等科児童が参列し氏子の代表の方々と共に荘厳(そうごん)(10)な式が行はれます。
尚二月十七日の祈年祭(きねんさい)及十一月二十三日の新嘗祭(にいなめさい)にも荘重(さうちやう)(11)な式が行はれます。
境川の清流を眼科に眺める高台に鎮(しずま)り在(ま)す高倉の七ツ木神社及下和田鯖(さば)明神社並に上和田原頭に鎮座(12)まします佐馬明神社と共に鎌倉将軍源頼朝公の父義朝公をお祀りしたものであるといはれてゐます。いつの世に創建されたのか不明でありますが、何れの境内にも老松、老杉鬱蒼(うつそう)(13)としているのを見る時、其の創建の如何に古いかを知るのであります。殊に下和田鯖(さば)明神の一大老松は樹齢七百年を超へていると言われ亭々(ていてい)(14)と天に聳(そび)ゆるを仰いだ時益々、其の感を深くいたします。
境橋の日枝神社及山下の子之社は共に大己貴命(おほあなむちのみこと)をお祀りしたお宮で日枝社は寛文(二百七十年前)の頃の創建で子之社は寛延三年(百八十余年前)の創建であります。
田中の八幡社は與田別命(ほむだわけのみこと)(應神天皇)をお祀りしたもので広い青田の中央に建てられ清々とした眺(なが)めであります。貞亨(ていきやう)三年(二百五十年前)再建されたといふ棟札があります。
中和田の神明社は、皇粗天照大神(あまてらすおほみかみ)をお祀りしたお宮で明和(めいわ)三年(百七十年前)に再建されたといはれて居ります。
下福田の若宮八幡社は、御威徳(15)共に御高き仁徳天皇をお祀りした神社で引地川を望む高台に建てられてあります。
問題
- 自分の部落の鎮守様のお祭りの日は何日だかわかっていますか。
- 神社に対してはふだんどういふ心がけが大切ですか。
- お宮の境内は部落のどういふ場所にあるかしらべてごらんなさい。
- 祖先の方々も神様を崇敬された事はどうしてわかりますか。
- お宮の境内にある碑とか鐘楼等の文字を讀んで御らんなさい。
- うやまひあがめること
- 祀られてある神
- 誠の忠義他にくらべものがないといふこと
- やぶれすたれること
- 一度たほれたものを建てかへすこと
- 貴人の死去特に三位以上の人に用ふ
- 松をふきはらふ風
- 例として毎年行はれる祭
- 神にささげることば
- おごそかなこと
- おもおもしい
- 神の霊がしづまりますこと
- 樹木が青々として茂つてゐる様
- 高くそびえてゐる様
- 威光と徳行
9、村の寺院
本村の寺院は八つあります。
不思議にも二つづつ同じ宗派(しゆうは)(1)に属して居ります。長後の永明寺(えいめいじ)と高倉の東勝寺は禅宗(ぜんしゆう)の臨済派(りんざいは)で、下福田の宗昌寺(そうしょうじ)と中福田の常泉寺(じようせん)は禅宗の曹洞派(そうどうは)であります。下福田の蓮慶寺(れんけい)と下和田の眞福寺(しんぷくじ)は古義眞言宗(こぎしんごんしゆう)であります。上和田の信法寺(しんぽうじ)と上長後の泉龍寺(せんりゆうじ)は浄土宗(ぢようどしゆう)であります。
泉龍寺の本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)と薬師如来(やくしにょらい)で、心譽といふ人が、天文十五年(三百九十年前)に創立したものでります。毎年八月二日十夜会(じゆうやゑ)が行はれ、参詣(さんけい)の老若男女で甚だ賑(にぎ)はひます。
信法寺は、本尊三尊彌陀(ほんぞんさんぞんみだ)で、僧空閑(そうくうかん)が慶長(三百三十年前)の頃創立したもので、屬堂(ぞくどう)(2)として改築(かいちく)された薬師堂があります。毎年九月八日に十夜会行はれ、芝居(しばい)、角力(すもふ)等の催しがあります。
眞福寺は本尊として不動尊が安置(あんち)され天正年間三百六十年前、融賢(ゆうけん)といふ人の開山(3)であります。
蓮慶寺の本尊は不動尊で寛永三年(三百年前)教與(けうよ)と言う人の創立であります。此処には、姥像(うばぞう)及閻魔(えんま)(4)像が安置されて居ります。此の姥像は往時、福田姥山に住んで居た云ふ山姥を木像にしたもので、百日咳(ひやくにちせき)に苦しむ童(わらべ)(5)の為に祈願(きがん)(6)をすると霊験(れいけん)(7)あらかたと言ふので参詣者が多いのであります。
宗昌寺の本尊は釈迦座禅(しやかざぜん)の木像(もくぞう)で、慶安心年間(二百九十年前)林室宗茂と云ふ人の開山であります。
常泉寺の本尊は聖観音(せいくわんのん)で元和の頃。存夙(そんしゆく)といふ者の創立で今日まで三百二十年の星霜を経て居ります。
東勝寺は阿彌陀如来を本尊として、元亀(げんき)年間(三百六十年前)秋健(しゆうけん)の開山であります。
永福寺は今より五百五十年前の永和の頃に創立されたもので、本尊は地蔵尊であります。
私達祖先の霊は皆以上の各寺院に弔ってあります。
問題
- 自分の家の宗派とお寺の名前をしらべてごらんなさい。
- 御先祖の命日をしらべてごらんなさい。
- 今年の春と秋とのお彼岸はいつでせうか。
10、奮跡と伝説
明治二十四年十月二十五日本村に近衛第二期機動演習(1)が行はれました際、畏くも明治大帝には親しく御臨幸(2)あらせられ薮鼻井上欣平(イノウエキンペイ)氏宅に御小憩(ごしようけい)遊ばされたと承ります。
明治天皇御駐輦(ちゆうれん)(3)の碑(ひ)は明治三十二年建設され碑の撰文(4)揮毫(5)(せんぶんきがう)は当時の神奈川県知事浅田徳則閣下(6)であります。
渋谷城址(しぶやじやうし)は長後天満宮及附近一帯の地といはれて居ります、永久(八百二十年前)の頃秩父六郎基家が武蔵の秩父から此の地に移って築城したといはれて居ります。其孫は渋谷庄司重國で東郷元帥の先祖に当られる人であります。
長後の通称向山に、穴居(けつきよ)の跡があります。入口六十糎四方、中の広さは畳四・五畳を敷く事が出来ます。発見された当時は未だ遺骨(いこつ)(7)があつたと云われたいますが如何なる者が住んだのか、不明であります。
下和田に入口一米四方奥行十二米許の土窟(どくつ)(8)がありましたが、これは昔戦争の時のかくれあなであつたといふ話が伝つて居ります。
宮久保と上和田の境に、城山と呼ばれる所があります。東は二十米許りの断崖(だんがい)となつて境川に臨んで、今日尚壕(ほり)(9)らしい跡も存して居ります。誰の居城であつたかは判然(はんぜん)(10)として居りませんが和田判官の城跡だといふ人もあります。上和田薬師堂は和田義盛が眼病平癒祈願(へいゆきがん)(11)のため、領地櫻山(上和田内に在り)に創立したものであるといはれて居ります。和田の地名と義盛と、城山との間に、何か関係づけられるものがある様に考へられます。
福田の姥山は、昔八町四方の篠薮蓬々(12)と生ひ茂つた中に。形相(ぎやうさう)(13)鬼の如き姥が隠(かく)れ道行く人を脅(おびやか)(14)し、里に出ては小児を害し、食をあさり、村人を大いに悩(なや)ましたといふことであります。
其所で村の人達が相談をして、櫻株の花見に事よせ咲き誇る櫻の下で毒酒を用いて此の姥を殺してしまつたといふことです。すると、退治された姥の亡霊(ぼうれい)(15)が夜な夜な現れ、鬼火となつて燃へ上り夕暮には此処を通行する者が無くなつたといふことです。
そこで慶長元年五月徳川家康中原街道を通行された時、里人より此の話を聞き、「相模なる福田の原の山姥は、いつにいつまで夫(つま)やまつらん。」と言ふ和歌を詠じて姥の怨霊(をんりやう)(16)を慰めたと、言い伝へられて居ります。
そうした恐ろしい伝説ある姥山も、今はすつかり開墾され、昔を知らぬ如く農作物はすくすくと伸びて居ります。
問題
- 自分の部落の名がどうして出来たかしらべてごらんなさい。
- 自分の部落にどういふ奮蹟があるか詳しくしらべてごらんなさい。
- 部落にある迷信、伝説をしらべてごらんなさい。
- 陸軍にて毎年各種の兵を合して未だ熟知せざる土地に於し行ふ演習
- 天皇陛下が御出になる
- 天皇の御車をとどめ給ふこと
- 文章を作ること
- 記念に書画を書くこと
- 貴人に対する敬称
- 死者の骨
- 土のあな
- 城のまわりのほり
- はつきりとしてゐる
- 病気が全快する様お祈りする
- 亂れて生い茂つてゐる
- かほかたち
- をどろかすこと
- 死人のたましひ
- 死霊のうらみをもつてたたるもの
11、行事と習慣
元日早旦(さうたん)(1)には、「お神詣(かむまいり)」と云って、氏神様に誰もが参詣いたします。
神棚には注連(しめ)縄を張り松、竹、裏白(うらじろ)、交譲葉(ゆづりは)、橙(だいだい)が飾られます。其の他、歳徳神(としとくじん)(吉方棚(えほうだな))(2)も祀られ、門口には所謂門松が立てられます。
屠蘇(とそ)(3)と雑煮(ざうに)は元日第一の御祝物で其他かずのこ、開豆(ひらきまめ)金平牛蒡(きんぴらごぼう)等の祝の御馳走も作られます。
初荷、売初め、買初めは正月二日で、長後などは実に賑やかなものです。
正月七日は七種(くさ)(4)と云つて、此の朝七草粥(ななくさがゆ)を祝ふ事になつて居ます。七種(くさ)(若菜)を刻む歌(5)の音も、今日は廃(すた)れて聞えなくなりました。元日から六日までを松の内と云はれています。
一月十四日は、昔から十四日年越(としこし)といはれて、此の日には各家庭で、団子(だんご)を作り枝にさして飾ります。門松、注連縄等を燃(も)して、団子を焼く左義長(さぎちやう)(6)が行れます。書初(かきぞめ)を此の時、燃す風習(7)も残つていますが、これは「火の用心」が肝要です。
十五日には薮入と云って八月のお盆と共に、奉公している人達の安息日であり、且つ父母を訪(たづ)ねる日となつて居ります。
村の消防出初式は、毎年正月十日頃行はれます。法被姿(はつぴすがた)で村中の消防手(しようぼうしゆ)が集合して点検(てんけん)(8)を受ける様は、実に勇壮な感じがいたします。
二月節分には、豆撒(まめま)き(おにやらひ)が行はれ鎮守様(ちんじゆさま)をはじめ家の内外に「福は内、鬼は外」と聲高く叫(さけ)びながら、桝(ます)に入れた大豆を撒いて歩きます。此の日に鎌倉半僧坊や大山不動尊に、豆撒に行く人もあります。
二月に入つて、初めての午の日を初午と云つて、お稲荷様のお祭を致します。
二月十七日に、村社長後天満宮で祈年祭が行はれます。祈年祭は、其の年、風雨や、旱魃、害虫等の事なく、五穀(こく)(9)の豊かに稔(みの)る様にと祈願する祭で、「としごひの祭り」とも云われて居ります。供進使として、村長さんが参拝をされ、参列者は秋の例祭の折と同様です。
三月三日は昔から上巳(じやうみ)の節句(10)とか, 桃の節句とかいはれ、何処の家々でも、雛祭を致します。女の子の祭りでありますため、總てやさしい女の用ひもの許るで、お供物も、五色の菱餅(ひしもち)や白酒、あられ等であります。
三月十日は陸軍記念日で、我が村では君國の為め身命を捨てられた方々の御霊(みたま)をお祀(まつ)りする式が忠魂碑の前で行はれます。式後毎年在郷軍人分会の主催で武道大会が盛大に行はれます。また此の日、講演会など催される事もあります。
彼岸は春秋二回あります。春分秋分の日を中心として前後合せて七日間をいふのでありました、即ち春分秋分の日を、彼岸の中日と言ひます。家々では御先祖の墓参(ぼさん)やお寺詣(てらまいり)等を行ひます。これは我が國民の祖先崇拝(すうはい)の眞の現(あらは)れであります。我が村の在郷軍人分会や老兵会の方々は、此の彼岸に戦友の墓参を行ひます。学校でも全校児童で之を行ひますが誠に意義深い(11)ことであります。
社日は春分または秋分の日に近い戊(つちのえ)の日を云ひ田の神、土の神を祀る日として我が村でも、此の日仕事を休んでお祭りします。
四月八日に村の各寺院では、潅仏会(かんぶつえ)を催します。之を花まつりとか、お釈迦様とか呼んでいます。種々の草花で作つた、花御堂(はなみどう)の中に、釈尊(しやくそん)の像が立てられ、甘茶をこれに潅(そそ)ぎかける一つの法会(ほうえ)であります。
四月十五日には、毎年我が村特有(12)の村民体育大会が、櫻端爛漫(らんまん)(13)と咲き誇つた下(もと)で挙行されます。此の体育大会が、年を追ふて盛大なものとなつて行くのは誠に喜ばしい事です。
八十八夜は立春(14)の日から数えて八十八日目の日を云ひ、大抵五月の二日頃になります。種蒔、耕作、すべて農事に取って大切な時期であります。
五月五日は端午の節句で男子の出世を祝ふ日です。村の家々には、鯉幟が立てられたり、武者人形が飾られたりします。菖蒲湯などもたてられます。
菖蒲酒や、ちまきなど、他の地方に行くと作られる様ですが、私の村にはかうしたものは作られません。併し柏餅(かしはもち)は沢山に作られます。
七月七日は七夕祭と云つて五節句の一つで昔は各地方で盛んに五色の紙に文字を記して竹の枝に繁けて掲(かか)げる祭をしたのですが我が村では今日、此の祭の名も忘れられやうとしている位、すたれている様です。
八月一、二、三日は我が村の盂蘭盆会(うらぼんえ)です。以前は七月十五日前後とか八月十五日を中心として行はれたのが、村一斉に此の日行ふ事に定まりました。併しまだ八月十五日前後に行ふ家もあるやうです。お盆は御先祖の霊(れい)を祭る大切な行事です。また此のお盆の夜に、盆踊(ぼんおど)りが行はれたものですが、近年これも廃れて、其の踊りを見ることも出来なくなりました。
昔は毎月一日十五日は之を吉日として祝つたもので、今も其の風習は残つて休日になって居ます。殊に八月一日は八朔(はつさく)と云つて昔は農家では特別な休日としたものだそうです。
旧暦(15)八月十五日の夜は、お月見をします。団子、里芋、栗、柿等を供へ、すすきなどを飾つてお月様に感謝の意をあらはします。
九月九日は重陽の節句といって矢張りお祝します。
十月二十日は、正月二十日と共に恵比寿(エビス)講で一年中の繁昌を祈願します。
十一月八日には、今でも村の鍛冶屋(かぢや)さんや銅工屋(どうこや)さんの家では、ふいご祭を行ひます。
十一月十五日は七五三の御祝で、村の氏神様に可愛らしい、男の子や女の子がお母さんなどに連れられて参拝します。
十一月二十三日は新年祭と同様村社天満宮で荘厳な新嘗祭(にいなめさい)が行はれます。其の年穫(と)れた五穀を献(けん)じて(16)御礼参(おれいまいり)をするのですから此の日は多数の方々が参拝をされたいものです。
十二月一日は「をとご(17)のついたち」と云つて餅や団子を食べる風習があつたさうで、今でも其の名残があります。
煤払も此の師走(しはす)(18)に行はれ昔はなかなか格式ばつて行つてものださうです。冬至も此の月に当ります。此の日は一年中で昼の最も短い日で家々ではゆづ湯をたてて入つたりします。昔から月々の晦日に蕎麦(そば)を食べる習はしがあり殊に、大晦日は何処の家でも定(きま)つた様に食べたもので今日でも此の風習は行はれて居ります。深々と更け渡つた、此の夜十二時も間近に迫つた頃になりますと、村の寺々から除夜(じよや)(19)の鐘が、寒空に嫋々(でうでう)(20)と響いて参ります。百八(21)の最後の一つが撞(つ)き終つた時いよいよ新年は迎へられるのであります。
問題
- 皆さんの毎月の行事をしらべてごらんなさい。
- よい行事は永久に残した方がよいと思ひますが其の理由がわかりますか。
- 村の行事は其の他どんなのがありますか、数えてごらんなさい。
- 正月や其の他に用ゐられる祝物等をしらべてごらんなさい。
- 朝はやきこと
- 午頭天皇を祭るのだと云はる
- 屠蘇に用ふる臺の酒は普通に味醂酒を用ひてゐる、是を飲むと邪気をはらひ、壽を延ぶと云はれてゐる
- せり、なずな、ごぎやう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、を云ふ
- 「七種なづな唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先にトントン」と昔は歌れたものです。
- 「どんど」ともいふ悪魔祓として行はれるもの昔は十五日に行はれた
- ならはし
- 人員の検閲をはじめ器械、器具をしらべたり動作訓練を見る
- 五つの主な穀物、稲、麦、豆、粟、黍を云ふ
- 一年に五つの節句があつて人日(じんじつ)(正月)上巳(三月)端午(五月)七夕(七月)重陽(九月)以上を五節句といふ。
- 深いわけがある
- 特別にありて他になきこと
- 花の咲きみだれたる様子
- 節分の翌日
- むかしのこよみ
- あげて
- 正月を太郎月ともいふに対し十二月を弟月といふことより弟兒と呼ぶ
- 十二月の異名で、一月をむつき、二月をきさらぎ、三月をやよい、四月をうづき、五月をさつき、六月をみなづき、七月をふづき、八月をはづき、九月をながつき、十月をかむなづき、十一月をしもつきと云はれてゐる。
- おほみそか
- 音の長くひびくこと
- 「煩悩の鐘」といひ、其の年のなやみわずらひをはらふためにつく鐘
12、我等の務
平和な我が澁谷村
私達の美しい村。懐(なつか)しい父母のいます所。慕(した)はしい兄弟・姉妹・親戚のある所、吾等祖先の墳墓(1)のある所、凡そ世の中にはこれ程よい所が他に求められやうか。
けだし(2)此の親しみの郷土も其の昔我が祖先の始めてここに住んでから、疏は密に密は親にお互相通じて和をとつて、ここに千数百餘年の星霜(3)を積んで建設された美しい我が渋谷村であります。
斯(こ)うした平和な村に生れた私達は、其の幸福を喜び合ふと共に祖先の栄(はえ)ある歴史に大いに感謝して、更に此の郷土を理想(4)の村たらしめる事に努力して祖先に報いねばなりません。
凡そ理想の村を建設するには、全村民の協力一致が最も肝要であります。村民全部が眞に朗(ほがら)かな気分を以て、各々自分の業務に励み、我が村の進歩発達をはかることによつて、益々立派な村が築(きづ)き上るのであります。
斯様(かやう)に村の公民として、よく其の務を尽すのはやはり忠君愛國の道を実行することになるのであります。私達は毎日の課業に精励(せいれい)(5)し、あつぱれ善良なる公民、堅実(6)なる國民とならなければなりません。
問題
- 本書はどんな目的を以てつくられたのですか。
- 本書を読み終つてどんな感じがしますか。
- 紙面の都合で書きたい事も略しましたが此の外いろいろの事柄を調べて書き足してごらんなさい。
澁谷読本 終