くま福田の起源

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 私達の学区内には「福田○番地」と呼ばれる所が多くあるが、この広い範囲にわたっている「福田」という地名の由来を調べてみた。

 福田は大きく上・中・下の3集落に分かれていて、学校を中心とした福田は、中福田そして長後の方に向かって下福田となっている。上福田は田中八幡宮を中心をした田中以北の引地台公園の方にかけてを呼ばれています。

 福田には通称「福田盟約書」と呼ばれる古文書が残されているが、その中には福田開発九人衆の者が相談して大正4年(1524年)に「福田村」という村名を定めたとも、また保田、田辺、広田という三田家の田と福をつけたとも伝えられている。

福田地域は他の地域に比べて、江戸時代以来の集落がごく最近までいろいろな面で生活の基盤になっていた「福田地域の草分け」と言われる福田開発九人衆の伝承の土地でもある。

 この福田開発人とされている九人は北から境橋・山下・新道下・外記名の範囲と小林大玄(のち柴田家)・広瀬藤八・田辺因幡守・山下半哉などが住みつき、代官庭・南庭・善光明・札の辻の辺りに保田築後守が、中福田には斉藤民部が住み、根下を中心をした下福田には廣田刑部之助(のち関水家)、駒井文太夫が住みついて、それぞれ子孫が繁栄した。市川源兵衛の所在が不明であり、駒井の子孫が現在継がれていないが、外は子孫を増やし集落を作って現在でも柴田氏の氏神であった日枝社と山下氏の氏神子の社が合祀された福田神社、保田氏の氏神であった田中八幡宮、斉藤氏などが氏神とした神明社、関水氏を中心とした若宮八幡宮の四社が福田地域の代表的な神社として祭られていると考えられる。

 しかし九人衆の人達が住みつく前に、旧家といわれる姓がある。中福田の張ヶ谷・吉川・馬場、根本の上野、三軒庭の富田・本田・河戸・八軒町の小島・飛田・江の窪の鈴木などがあるが、土民と言われる先駆者がすでにいて、そこへ九人衆が入ってきて福田村と名付け、開拓が進められたと考えられる。

 更に古くは、相模野台地をほぼ南北に流れる引地川の谷に沿って集落が開けており、その両岸低地に水田、集落の背後の台地上に畑、山林が開けていた。また川沿いの丘には数多くの横穴式古墳が発見されている事から、相当古い時代から人が住んでいたようである。

 現在は昭和4年の小田急線の開通、昭和16年からの現厚木航空基地の建設や、その後の区画整理事業、宅地化の進行による市街化などによって、その景観が大きく変貌し、かつての農村的な姿は中福田以南となり、それも次第に市街化の方向に進んでいる。

 現在、大和市の人口は18万余り、全国から移り住んでいる。

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